Sun, Apr 24

  • 23:12  そのつぎの はっとり・しろーのの 「昔韻膿系」も ひどい。 http://ow.ly/4FTvX
  • 23:10  *竈*井 孝とわ なにもの? 亀井孝「書評・紹介 大野晋上代仮名遣の研究――日本書紀の仮名を中心として」『言語研究』25: 67-77 / 言語研究: ??(1954),? pp.- http://htn.to/aKsm8Q
  • 22:45  舩城俊太郎『院政時代文章様式史論考』(勉誠出版、2011年2月)の校正漏れ - 禁止法表現史(pp.18, 171) → 禁止表現法史(p.94)が正 「『如シ』と『要ナリ』とから見た今昔物語物語の文章」(p.18)... http://tumblr.com/xcg28yi1rz
  • 08:24  別に仕上げをする工人が有る。こんな工合に一頁の版木でも、仕事の難易を工人の手腕に應じて工作を運んで行くのであるから、數千頁數萬頁の木版でも、一人の手によつて刻された樣に見えるのであると感心をしたことであつた」(たなか1937、149-150ペ、元史)。
  • 08:24  親方らしい人物は悠然として見廻つてゐるだけで、自分は仕事をしないのである。工作の有樣を見ると、第一に木目に順つて横畫だけを彫る工人が有り、それを隣りの工人へ廻すと逆目の竪畫だけを彫り、その隣りの工人は罫線だけを彫つて次へ廻す、更に「さらえ」を專門にやる工人が有つて、
  • 08:24  「新元史を木版に刻する工作を始めた時に筆者は偶々北京に在り、董授經翁に伴はれて城外に牡丹花を賞し、歸途その工作を實見した。場所は法源寺の廻廊を用ゐ、庭に面して紙障子を立て、數十の工人が晩春の日に向つて一列に坐を占め、刻版に專心して居つた。
  • 08:24  古鈔舊槧を數多く插架せられた湖南博士の如きも、若い時分には流布本で盛に讀書をしたのであると、笑ひ乍ら度々筆者に話されて居つたし、箭内博士も若い時分には圖書集成局鉛印本で二十四史を讀んで居られたのである」(たなか1937、131-132ペ、史記)。
  • 08:23  どしどし本を讀まなければならない若人が、古寫本・古版本に關心を持ちすぎると、讀書力が萎縮する虞れがある。世の中には流布本以外に、多少は誤りを訂正するに足る古寫本・古版本が存在してゐると云ふことだけを知つて居ればそれで澤山である。これは決して筆者の臆談では無く、晩年には藏書萬卷、
  • 08:23  こんなことは苟も古版本を求める人は先刻御承知のことであるから、説明を略してゐるのであつて、一から十まで、古版の方が流布本よりよいなどと考へると、飛んだことになる。要するに、古寫本・宋元版がどうのかうのと言ふのは、相當に學問の出来上つた人達の間にだけ通用する話で、
  • 08:23  一番よろしいのである。(……)假令ば或る版の書籍が影印せられると、その説明書には必ず流布本との異同を擧げて、宋版の貴重なることを詳説してゐる。それは確に其通りであつて虚言では無い。しかし流布本の方が校正されて居つて、宋版の方が却つて誤つてゐる箇處は決して指摘してゐない。
  • 08:23  「宋版の貴重なことは言ふまでもないが、然し一歩を退いて考へて見ると、原來この古版を尊重することは、流布本中の一番よい校訂本を通讀してゐることを前提として初めて有意義である。たまたま校訂漏れの僅かな箇處を古本によつて訂正し得るのであつて、大體から言へば清朝時代に校訂せられた本が
  • 08:23  載せなければ淺儒はこの字典は遺漏が有つて完全で無いなどと云ふであらうから、その中でも用に立ちさうなものだけを附録(補遺・備考・)して置くとなかなか味のあることを言つてゐる」(たなか1937、103ペ、康煕字典)。
  • 08:22  「提要の末文に、「蓋し古義に拘泥する者は、説文九千字より〔以〕外の者は、みな斥けて僞體と爲し、遂に音韻を必ず音均に作り、衣裳を必ず衣常と爲す……に至る。」と述べ、その外奇怪にして古に考へて徴し無き文字も多く有るが、そんな文字を並列しては通儒はその荒唐であることを嫌ふであらうし、

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